【女子アイスホッケー】デーリー東北・私見創見「東日本大震災5年」

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デーリー東北 2016年(平成28年)3月10日(木)朝刊紙面 コラム「私見創見」より

東日本大震災5年

苦悩から見いだした「役割」

 津波の映像を見ると泣いてばかりいた。震災関連のドキュメンタリー番組は、まともに見ることができなかった。
2011年3月11日、第30回全日本女子アイスホッケー選手権大会Aグループに出場していた。場所は北海道帯広市。大会2日目の試合後、他チームの試合を観戦するためリンクへ移動しようとしていた時、大きな揺れを感じた。
震度は4。でも、揺れ方がいつもと違う。嫌な予感がした。バスのテレビを付けると、東京のお台場で黒い煙が上がり、東日本の海沿いの町に津波が押し寄せていた。
選手は八戸にいる家族と連絡を取ろうとしたが、なかなか携帯がつながらない。港の近くに住む一人が、「お母さんが『どこに逃げればいいの』って言ってる」と泣きそうな顔でつぶやいた。
テレビの映像が八戸港を映し出す。見慣れた景色が津波に飲み込まれ、大きな漁船が流されていく。その様子をただ見ているだけだった。
その日の夕食。「ねえ、みんなでくっついて食べようよ。ほら、お母さんもこっち来て!」
応援に来ていた家族にも声を掛け、テーブルをつなげられるだけつなげ、肩を寄せ合って食事をした。食堂に他にお客さんはいないのに。
言い出したキャプテン(当時)は、私と同じ「ママさん選手」だった。どんな思いでその言葉を発したのかと思うと、胸がつまった。
八戸が、日本中が大変な状況の中、大会は続行が決まった。それまではどんな状況でも試合に集中して臨むようにしていたが、初めて「アイスホッケーをしていること」に後ろめたさを感じた。
一睡もできなかった。本当にいいのか。自分たちだけ試合をしていていいのかー。
選手は一生懸命戦ったつもりだが、結果は全敗で最下位に終わり、Bグループへ降格。目標としていた大会だったのに、悔しさはなかった。
フェリー埠頭が被害に遭い、苫小牧ー八戸間では帰れない。スタッフが探し出してくれた函館~青森間のフェリーに乗って、バスで青森から八戸へ戻ることになった。
同じ便に、「災害派遣」と書かれた車と迷彩服を着た人が次々と乗り込む。被災地へと向かう自衛隊だった。海は穏やか、船は全く揺れなかった。
「もう、アイスホッケーはやめよう。娘が2人いる。家族を残してまで遠征に行く必要はない。」そう思った。
一方で、「わたしにできることはなんだろう?」と考える日が続いた。日本中が「何かしなければ」という思いになったあの時期。こうして生きていることは、本当に奇跡なのだ。ならば、どう生きる?何をする?何ができる?
3月29日、サッカーの震災復興支援チャリティーマッチで、三浦知良選手がゴールを決めた。なぜか、涙があふれて仕方なかった。
ちょうどその日、心の中を見透かしたように、旧知の友人に電話で言われた。
「ホッケーやめるなよ。黙ってやってろ。それがお前の役割だ」
1年後、1人の中学1年生が入部した。自宅が津波で大きな被害に遭ったという。「そうか。この子のためにも、まだホッケー続けなきゃ」
彼女には夢があった。日本代表になることだ。現実から目をそらしていた私が唯一できることは、被災してもアイスホッケーを続けた彼女の夢を叶えること。それが「役割」でもある気がした。
東日本大震災が起きたあの日から、あすで5年。チームはAグループ復帰を果たし、彼女もUー18日本代表となり着実に成長している。
そして、きょうから第35回全日本女子アイスホッケー選手権大会が始まる。開催場所は札幌市だ。アイスホッケーができることに心から感謝して、またフェリーで海を渡り、試合へと向かう。

女子アイスホッケー元日本代表 鈴木あゆみ

<二次利用申請許可済>

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