私見創見「失意の代表落ち」【デーリー東北2016年12月22日掲載】

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デーリー東北 2016年12月22日(木)朝刊 コラム「私見創見」より

失意の代表落ち

新たな道のスタートに

年内最後の担当回。振り返ると、執筆のきっかけはちょうど1年前の12月22日、アイスホッケーの後輩でもある、デーリー東北の記者の方とのLINE(ライン)だった。

「実はあゆみさんにお願いが…。コラム書いていただけませんか?」。文字のやりとりだけとはいえ、緊迫した雰囲気が伝わる。「これは断っちゃいけない。断る理由もない」。直感でそう思い、「自分の言葉で伝える場をいただけるなら」と承諾した。

プロフィルと顔写真を提供すると、新たな執筆者として紙面上で紹介された。「私で良かったのだろうか?」。女子アイスホッケー元日本代表という肩書を付けてもらったが、読者の皆さまに一体何が提供できるだろう。

資料として送られてきた私見創見の第一印象は「難しい言葉がたくさん並んでる…」。「好きに書いていいですよ」という言葉が、逆にプレッシャーとなっていた。

新聞への執筆依頼は、実は今回が初めてではない。2003年2月、青森県で開催された冬季アジア大会の期間中、「観戦記」を担当させていただいた。もう10年以上前のことだが、「その時の記事が社内でも好評だったので、ぜひお願いしたい」と私が浮かんだのだという。

また救ってもらった。本当にありがたいと思った。「また」と言うのには理由がある。

「アジア大会で地元のチームから日本代表入りしたい」と東京から帰郷したが、夢はかなわず落選。一人、車の中で泣きじゃくった。そんな時、「アイスホッケーノートを10年以上つけている」「書くことは好き」ということを取材で知っていた別の記者の方が、「観戦記、書いてみませんか」と声をかけてくれた。

代表落ちした自分が書いていいものか。当時25歳。選手としてのプライドもわずかながら残っていた。悩んだものの、「あゆみさんの視点でしか書けないものがあると思う」と言われ、必死に書いた。

三沢市で行われた女子アイスホッケーでは、当時最大のライバルだった中国を破って笑顔の銀メダル。選手が歓喜の輪を作る光景を、どう書こうかと思いを巡らせながら、観客席からじっと見つめたことが今でも忘れられない。

その観戦記がきっかけで、県内他紙のホームページやフリーペーパーでの連載依頼が舞い込んだ。07年4月には、栃木県日光市で開催された女子アイスホッケー世界選手権ディビジョンⅠ公式サイトでも、コラムを担当させていただいた。

スポーツに「たられば」は禁物だが、あの時に代表入りしていたら全く別の人生だったと思う。こうしてコラムを書くこともなかったし、目標だった中国に勝って満足し、選手として燃え尽きて辞めていたかもしれない。

地元チームから日本代表入りという夢は果たせなかったが、それは同時に新たな夢へのスタートラインだったのだ、と今は思う。自分でつかむ夢もあれば、「書くことが好きなら書いてみて」と手を差し伸べてもらって気付く夢もある。それはそれで、とてもありがたいことだし、運命を引き寄せ、受け入れる強さも時には必要なのかもしれない。

8歳から始めたアイスホッケーは今年で31年目。家庭や仕事、子育てとの両立に限界を感じ、選手としてはいったんユニホームを脱いだ。来年からは違う形でアイスホッケーと関わるつもりだ。

「書くこと」で貢献できるならという思いが芽生えていたところ、来年も継続して私見創見を担当することになった。今まで応援してくださった皆さま、読者の皆さま、そして新たな道へ背中をそっと押してくれた新聞社の皆さまに、心から感謝したい。

<二次利用申請許可済み>

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